いつくるの「地方の時代」?
都会への疑問
地方の時代という言葉はもはや使い古されています。中央集権に対する反論として1970年代から言われています。
きっとちっとも地方の時代がやってこないから、言葉も寂れているのでしょう。
それどころか、「限界集落」、「シャッター通り」、さらには「消滅可能性都市」など、地方の危機を象徴するセンセーショナルな言葉のほうがリアリティをもって感じられる惨状があります。
一方で、都会もここ数十年で盤石さを増したわけでは決してありません。
震災時の帰宅難民など一極集中の脆さが露呈し、M7級の首都圏直下型地震が起きる確率が30年で70%などとも言われます。
さらに労働環境についても、電通やNHK、三菱などの大企業での過労を原因とした社員の死が多く伝えられます。
SNS等で個人の発信力が高まる中で大企業はコーポレート・ガバナンスやコンプライアンスに過敏にならざるを得ず、その一員であることでの息苦しさは増しています。
日本で一番利益を上げるトヨタでさえ終身雇用制度の限界を発言し、業績不振の大企業はもっとも給料の高い40代の社員を首切りする。
派遣労働者の若者は使い捨てカイロような扱いです。
都会の閉塞感の中で生きる若者が、地方を形容するやるせないレタリングを目にし、行動に駆立てられるのは自然の成り行きとさえ感じます。
そして地方への回帰
私は首都圏に6年半住みましたが、生活が豊かであることと心が豊かであることはやはり別物だと感じました。
地方には、その土地固有の文化や言葉、風習など理屈抜きに美しいと感じるものがゴロゴロあります。
私のその感覚を支持するような、若者を中心とした地方回帰の活発な動きが近年データでも伝えられています。
まず国土交通省の資料からですが、大局的な統計データからその動きを捉えるのは難しいものの、人口の社会増を実現している地方の市町村が確実に存在することも確かであり、言及されています。
また、「一般社団法人持続可能な地域社会総合研究所」が、国勢調査のデータを基に2010年の25~34歳女性人口と2015年の34~39歳女性人口を比較したところ、797の過疎指定市町村のうち41.0%(327市町村)で増加率がプラスだったという調査結果があります。
しかも「離島・山間部等の縁辺性の高い小規模町村が健闘」との兆候を明らかにし、「今まで条件不利と見られてきた離島や山間地域から、人口取り戻しの『狼煙』が上がっています」と評しています。
さらには、認定NPO法人 ふるさと回帰支援センターによると、移住に関する相談件数は年々増加しており、2018年には初の年間4万件を突破しています。
また、報道向けプレスリリースの中で下記のように述べています。
地方移住=田舎暮らしというイメージからの脱却。
20歳代から40歳代の相談が約70%を占めるようになったことや、地方生活の経験のない東京圏出身者の相談が約40%を占めることから、移住希望先として農村・山村といういわゆる「田舎暮らし」だけでなく、仕事が見つけやすく、生活スタイルに極端な変化が少ない県庁所在地や中核市などの「地方都市暮らし」のニーズが高まっている。(後略)
日本人の価値観が多様化するのと同時に、かつてのような経済成長が望めず将来の雇用や老後も保証されない今、あえて大都市圏や大企業にこだわることが必ずしも幸せをもたらしはしないことを心の底で感じ取っているのでしょう。
また、多少収入が下がってでも地方に移住するメリットが上回るという価値観を持つ人が増えているわけです。
地方で生まれたとすれば、その地で幼年期を過ごし、公立小中高校を中心に地元の教育機関勉強して成長しているはずです。
めいっぱい地方のお世話になって一人前になるまで面倒を見てもらっているはずなのに、ようやく社会恩返しできる立場になったというのにそのアウトプットの多くの恩恵は都会の企業が享受しているのならば、結果として中央集権化に肩入れするような状況になっていませんでしょうか。
もちろん東京で集まった税金も一定量が地方に回されるので、間接的には貢献しているのですが、地方に移住し、消費し、地方の企業に貢献し経済を活発化することができれば、今にも病に倒れそうな地方にとってそれは一番の特効薬になることに疑いはないわけです。
当然、都会で大成功した人は都会から離れたくないでしょう。
そのため、これまでUターン転職などは都会でうまくいかなかった人の「逃げ」という文脈で語られることが多かったと思います。
私はきっかけとなる理由は何でも良いと思っています。
自分自身もどちらかというと都会で思う姿に到達できなかった類ではありますが、何を動機とするかについては当サイトの主張とはあまり関係ありません。
都会でこそ自分が輝くと思ってバリバリ活躍している人は、そのまま邁進してくれたら良いと思います。
当サイトでの問題提起は、地方ならば100の力と影響を発揮できるのに、30くらいしか発揮できずに都会の大企業でくすぶっている人が多いのではないかということであり、そういう人が「地方で100」やることによって、日本全体が上手く回るのではないかというのが主張です。
日本は観光で食っていくしかない
日本の世界的地位はここ30年で大きく低下しました。
GDPや企業の時価総額、ブランド力、研究開発力、完成品の世界シェア等、以前の隆盛からは程遠い状態です。
確かにまだまだ製造業における世界的地位は高いままです。自動車ががんばっており、素材や産業機器、医療機器・精密機器など世界シェア1位の製品はたくさんあります。
しかしパソコン、テレビ、携帯電話など生活家電分野・弱電分野はことごとく他国にシェアを喰われ、お家芸だった半導体をはじめとする電子産業は工場閉鎖のニューを聞き飽きるほどです。
他方でITやサービス業への業界シフトが遅れ、ITではGAFAのような圧倒的な力に到底及びません。
そのような中でも現在の世界地位を維持できているのは、先進国にして1億を超える人口を持つという内需の効果が大きいためです。
しかしそれも、少子高齢化と出生率低下で有利性が失われゆくことが確実です。
さらには非正規雇用の規制緩和や上場企業の優遇で格差が拡大し、国内消費を下支えしてきた中間層が減っています。
そのような状況下で、今後日本が何で経済成長するかとなったときに、柱と目されるのが「観光産業」です。
日本古来の文化は西洋の人にとって美しく情緒的に響く上に、異空間たっぷりで非日常を味わうにもってこいであり、自然もあり食のレベルも高く治安も良いとなると、観光産業によって今の何倍も潤うだけのポテンシャルがあるそうです。
(もちろんそのためには改善しなければいけない点がたくさんあり、上から目線の接客を止めるなどの心の持ちようから、クレジットカード等のインフラ整備まであります。)
これらはほとんどデービッド・アトキンソンの著書の受け売りなので、詳しくは著書を読んでいただきたいです。
地域固有の伝統文化は美しく、無くしてはいけないもの。
特に地域性に富む日本においては、都会から地方を志向する人はなおさらそう思っているはずです。
それは絶滅危惧種の生物を守るべきとか少数民族の文化を尊重すべきといったことの同直線上の感覚だと思います。
観光というものは、心身をリフレッシュしたり好奇心を満たすだけでなく、そのような異文化に触れることで自分を見つめ直し、逆に自身が住む世界の価値を再評価し高めることにつながっているのではないでしょうか。
そのためには普段の環境と異なるほど面白く、効果が高い。
島国として長年閉ざされてきたことで文化の純度も高まった日本という国が外国人に神秘的に映るのは、観光地のポテンシャルとしてとても優位なことです。
この優位性を活かすためには、ニトリ・ユニクロ・ゲオ・イオン通りのような利便性を追求した街づくりではなく、商店街を復権するなど、その土地でしか味わえない固有の「空気」を再醸成する必要があります。
つまり「田舎臭い」「ダサい」「古い」「面倒くさい」と切り捨てられてきたものこそ、次の日本の経済成長を支える貴重な資源となりうるというわけです。
都会から地方に移住するということは、その土地の文化や風習も受け入れていくということです。
それにより存続の可能性が増えるだけでなく、異なる視点によって埋もれていた価値が掘り起こされる機会を得ます。
それは一見、都会の舗装されたメインストリームから外れて獣道に草を分け入ってゆくようなことをしているようで、実は未来の日本を支える先駆者への道を開拓していることになっているかもしれません。
「故郷」には特典がいっぱい
さて、国への貢献度という観点だけでなく、自分自身にとっても有利な状況が生み出されるのが地方移住です。Uターン、Jターン、Iターンはそれぞれ地方回帰という文脈上では相似的な事象として扱われますが、行く場所が「生まれ故郷」かどうかというのは大きな違いを生みます。
ここでは「生まれ故郷」としてのメリットを中心に述べるのですが、もし移住した地方が生まれ故郷でなかったとしても、結果的に同じだけのメリットを享受できる可能性はあります。
後者の場合、実家の親兄弟は同級生などを介したつながりがないからこそよけいに、地方の住民とより積極的なコミュニケーションをとっていく必要があります。
別カテゴリで書きますがそれにはかなりの覚悟が必要で、性格的に向く・向かないの話もあると思います。
しかしそのハンデをものともせず、親世代の人たちとも交流して第二の親とでも言える関係性を構築し、第二の故郷と言えるほどの土着性を得る若者も多く存在します。
一方で地元の高齢者も、以前は突如移住してくる若者に否定的な雰囲気があったようですが、今は地域社会を盛り上げてくれる存在として認知しつつあり、それもうまく相まっているのだと思います。
以下では「故郷」ということばを多用しますが、「第二の故郷」と読み替えてもらっても同じことが言えると思います。
「肌に合う」場所を求めてみる
グローバル化ということばのもとに、世界中に飛び回って働くことが時代の寵児であり成功者であるかのように聞こえることがあります。
しかし、「どこに住むか」ということは、非常に大事なことであるはずです。
むしろ、通信の発達により、自分の好きな場所に住みながら、地域を超えた仕事ができるチャンスも増えて来ています。
芸術家、漫画家、デザイナー、作家など、美意識や感覚、発想が重視される職業の人こそ、地方で仕事をする人が目につきます。
最近はIT企業も地方にオフィスを構えるケースが増えています。
そういった現象は、都会よりも地方の方が仕事をする上で大きなアウトプットが見込まれるからに他なりません。
そんな移住の候補地としてまず挙がるものは、「故郷(ふるさと)」です。
「いなか生まれ」というのはなんだかダサいようですが、「戻る場所がある」「アイデンティティになる」といった意味合いでは首都圏周辺の人には羨ましがられることもしばしばあります(バカにされているだけの場合も往々にありますので過剰に意識しないこと)。
その故郷というものは、遠くから見ることでその魅力が再発見されるものではないでしょうか。
子供の頃から当たり前だった環境、いつも食べていたもの、四季の風景、ことば、家のたたずまい、側に常にあったもの。
都会の暮らしに染まりきったつもりでも、それらがいつもどこか身体の深層から染み出してきて、田舎だとバカにして捨てたつもりの故郷が、ふと輝いて見えることがあります。
その感覚は生物の本能として自然なことと思います。
今までの自分の生き方がなんだか常に「これで良いのか」と迷っていてブレブレだったとしても、故郷に戻ることで何かブレない軸を一本得たような、すっきりした感覚で生きることができます。
なんだか抽象的な表現になってしまいましたが、「肌に水が合う」という表現を思い出してください。
水族館の水では長生きできない魚がたくさんいるように、自分の力を最大限発揮できる場所が故郷であるのは自然なことではないでしょうか。
地方はそれ自体が参入障壁
感覚的なスッキリ感だけでなく、「故郷」に住むことでの実利もあります。
日本が独立島国であるが故に、他国からの経済的・文化的侵食を大分免れることができたのと同様に、日本の中で見た地方の存在も同じことが言えます。
その地域独自のことば、文化、共通知識などにある程度の理解が無いと、商売をするにしてもコミュニケーションすらまともにとれません。
場合によっては「よそもの」を受け付けない雰囲気をもつコミュニティさえ存在します。
つまり、それらの予備知識や無意識に通底した感覚があれば、他の多くの人が持っていない「スキル」を既に身につけているようなものです。
他の地域出身者がレベル1から経験値を上げ何年かやってようやくレベル10に到達してるところに、いきなりレベル20くらいからスタートできる感覚。スマートな東京人など付け入る隙もありません。
とはいえ、ローカル環境への適応度で言えば、もともとずっと地方に住む人に敵うはずもなく、いったん都市圏に出てから戻って来た人はどっちつかずな感じがするかもしれません。しかし逆に言えばずっと地方にいる人には得られない知識と経験をたんまり持ち帰っているはずです。最初はモグリのエセ地元民でよいので、携えた力を発揮すれば、ネイティブに負けず劣らず、もしくはそれ以上の成果を上げることができます。
住むこと自体が親・地域への恩返し
従来の日本では、2世代3世代家族というのが当たり前にありました。
今や核家族が多くを占め、親と同居している人の割合も減っています。
家を出てからも親と良い関係を続けていて、頻繁に恩返しをしているようなハートフルな親子関係であれば良いのですが、特に離れて暮らしているのならばどうしても疎遠になります。
疎遠になってたとしても、育ててもらった感謝の気持ちというのは失われません。
しかし特にそれを形や言葉に表すようなことは気恥ずかしさもありなかなかできなかったりします。
しかし、親にとって「子どもが近くに戻ってきた」という事実は、大きな自己肯定感をもたらすでしょう。
自分が生まれ住んでいる場所というのはもはや血肉と同等なので、自分が受け入れられたも同然です(仮に戻るほうとしては実際はそうでなくても)。
今や未婚率も急上昇中で、少子化真っ只中において、自分の孫の顔を見られる人自体が少数派になるような残念な時代も見えてきています。
そのような中で孫などを連れてきた日には、「親孝行」に等しい行為です。
加えて、親・家族には心理的な安心感をもたらすでしょう。
いつ自分の身に不測の事態が発生するかわからない。身体だけでなく家に何か不具合が発生したりするかもしれない。
そんなおおごとでなくても、ちょっと何かを頼みたいが近所には頼みにくいといったこともあるでしょう。
「いざとなればあいつがいる」という奥の手を持てるだけでも、心の平穏が違います。
このように、「故郷に戻る」というのはもっとも効果的な「親への恩返し」となります。
それも、故郷に戻ることの大きな効能といえるでしょう。
本節の冒頭で述べた通り、生まれ故郷ではない地方にI・Jターンした人にとっても関係のない話ではありません。
繰り返しますが若い人が近くに増えること、子供の声が近所から聞こえることは地域住民にとっても喜ばしいことと捉えられますから、消費による経済的貢献だけでなく自分の人間としての営み自体が周囲地域に好感をもたらしうるのです。
人がうじゃうじゃいる都会ならば、むしろ余計な人はいなくなってほしいと思ったりもするわけで、裏を返せば自分が仕事でうまくいかないとか人間関係でつまずいたりすれば、私はこの場所に不要な人間なのでは?などの自己否定の念に陥りがちです。
一方で田舎では「こんなところによく来てくれたな」と言われるほうが多いわけです。自分の生活の営み自体が歓迎されるわけですから、それは親孝行するのと同様に自己肯定感を高められるものです。
舞台は整った。課題もみえた。あとはやるべき人がやるだけ。
今回は地方に住むメリットと、地方が持つポテンシャルを述べて来ましたが、もちろん地方には課題も山積しています。
その一番の課題は「街づくり」だと思っています。そこにはもちろん、社会インフラや医療、公共サービスも含まれます。
その課題への解の一つになりうるのが「スマートシティー」だと思いますが、それを実現するには為政者や住人の大きな覚悟が要ることはもちろんのこと、民間も推進力の一躍を担う必要があります。
その意味で、会津若松市のICTを活用したスマートシティー構想は意義深いものです。歩み始めたばかりですが現時点での感想などを下で書きました。
これからの街づくりにおいてICTの基盤は必要不可欠となります。
そして、役所主導でただ技術が用意されるだけでは計画は頓挫します。それを推進して行く人材が民間企業内にも必要なのです。